60年前の悲劇。宮森小学校米軍ジェット機墜落事故について
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皆さんは「宮森小学校米軍ジェット機墜落事故」についてご存知でしょうか?
本日2019年6月30日は、あの事故からちょうど60年が経ちます。
1959年6月30日にこのような悲惨な事故があったこと、この事故を風化させず、改めて日本中の方に知ってもらいたいという気持ちを感じてもらえれば幸いです。
宮森小学校ジェット機墜落事故とは
今から60年前の1959年6月30日午前10時40分ごろ、アメリカ空軍のジェット機であるF100Dが操縦不能となり、沖縄県石川市(現うるま市)の宮森小学校の校舎に墜落し炎上しました。その際に周りの民家35棟も巻き込んでいます。
この事故で17名(うち小学生児童11名)が亡くなり、210名(うち小学生児童156名)が負傷しました。その他住家17棟、公民館1棟、小学校の3教室を全焼し、住家8棟、2教室を半焼するという大惨事となりました。
また、やけどによる後遺症で事故の17年後に1人が23歳で亡くなっており、亡くなった方は合計で18名となっています。
事故当時、学校には児童と教職員ら約1,000人がおり、2時間目が終了した後のミルク給食の時間で、ほぼ全児童が校舎内にいました。特に直撃を受けた2年生の教室の被害が最も大きく、火だるまになった子供たちは水飲み場まで走り、そのまま次々と息絶えたと伝えられています。
なお、ジェット機を操縦していたパイロットは事前にパラシュートで脱出しています。
その際に、人気の無い山岳地帯に機首を向けていたそうですが、パイロットが脱出した後に機体が右に傾き、不運にも小学校に突っ込んでしまったようです。
事故原因
米軍の空軍司令官スミス少将は当初、事故は夏空の予期せぬ落雷によるエンジントラブルによる不可抗力で防ぎようがなかったと証言しています。
ところが、事故から40年後に琉球朝日放送によって、不可抗力の事故ではなくて、エンジントラブル以前の 「整備不良」が原因だったことが米軍資料で明らかにされました。
また、爆弾を四発も搭載しており、その事実は県民に隠されていたのです。
その爆弾がなければ…もう少し被害は少なくて済んだかもしれません。
事故後の沖縄の動き
この事故直後から全沖縄で反米感情が高まりました。
しかも、その時期は米軍による土地接収が強行されていた時期と重なっていたこともあり、激しい抗議行動や補償要求が行われたようです。
しかし、また当時の市長は賠償交渉を円滑に進める意図で事故の復旧に貢献したとして米軍に感謝状を贈っています。
当時の市長の行動を否定する気はありませんが、犠牲になられた方に顔向けできるのでしょうか?加害者に感謝状を贈ることを…
最後に
いかがでしょうか。
当事故は、当時の米軍機で最悪の航空機事故だったようです。また事故での被害者の治療のために沖縄本島中部に在住する医師のほとんどが駆けつけてくれたようです。被害の大きさがうかがえます。
私も仕事、プライベート両方で宮森小学校に行く機会がありました。そこにはこの事故で犠牲になった児童たちを慰霊する「仲良し地蔵」が設置されています。この事故を知った後は、その仲良し地蔵に手を合わせて、ご冥福をお祈りさせていただきました。
沖縄は軍の問題で揺れています。県民の中でも、この米軍基地の賛否について意見が割れており、同じ県民同士でのいがみ合いがあるのも事実です。
何が正解で、何が間違いなのか、それは私には到底わかることはできません。
しかし、こういった犠牲の上に、今の沖縄があること。それを当たり前と思わず、いかに大切に考え、次世代に伝えていくか。改めて考えさせられました。
沖縄だけの問題ではなく、日本全体の問題として考えていただきたいと願います。
沖縄生まれ、沖縄育ちの純うちなーんちゅの30代男性会社員、二児の父です。
沖縄に関することや体験談、私や家族が気になったことなどをブログで発信しています。